武相州国境道の探索・・

今日は汗ばむような陽気・・横浜では20℃を超えたようです。
3月28日に武州と相州の国境の道(鎌倉古道)の探索をしましたが、確認したいことを含めて、再度探索することにしました。
確認したいこと・・
 ①国境の道は南高校の脇あたりから続く尾根道ではなかったのか?
 ②勘九郎地蔵尊跡前の道(説明板には、前の道が武相州国境の道と書いてある)の検証
 ③勘九郎地蔵尊跡の右側の道(尾根道)を境木地蔵尊まで続く道(3月28日に歩いた道)が国境の道ではないのか?
です。
この二週間で
 ア)明治15年に作成された、帝国陸軍測量部の第一管区地方二万分一迅速側図原図復刻版を入手(購入)した
 イ)新編相模国風土記稿を入手(購入)した
ことにより古道のトレースが格段に確度が上がり、また、深堀できるようになりました。
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これ・・明治15年製フランス式彩色地図です。後にドイツ式が一般的になりましたが、ドイツ式は図書館で一部を閲覧することができたのみでした。結局・・復刻版を購入しました。
当時(明治15年・・当然、国道一号線も東海道線も開通していない)の国道(今回のトレースは旧東海道)を起点にして現在の道とトレースします。
で・・旧東海道の赤関橋(柏尾川に掛かる橋)から、弘明寺に向けて歩くことにしました。
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赤関橋です。柏尾川の左岸沿いに旧東海道が国道一号線と並走します。
この先、国道一号線と合流する地点(東戸塚入口交差点)から旧東海道弘明寺道(今回探索した道)の分岐があります。
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平戸白旗神社です。相模国風土記稿には平戸村の鎮守と記されています。
「平戸村・江戸ヨリ行程九里永谷郷ニ属ス。戸数四十七・・」
白旗神社寛永十一年の庚申道標があり「右ぐみょうじ道」と刻まれています。
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平戸村に旧東海道弘明寺道の分岐があり、勘九郎地蔵尊まで延びていたことになります。明治15年の迅速側図にも”村道”として記載されています。
この道沿いには東福寺、光安寺、山谷天神社があります。
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東福寺には「是よりぐみょう寺」と刻まれた道標がありました。
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光安寺です。
東福寺、光安寺も当地の古刹です。風土記稿にも記載があります。
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山谷天神社です。天保三年の庚申塔があります。天神社の前には、平戸桜木道路という幹道が通っています。
天神社前を桜木町方面を見ると、前回歩いた国境の古道を寸断した切通しが見えます。
平戸桜木道路を桜木町に向かって、右側にそれていくと勘九郎地蔵尊跡に着きます。
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左側に地蔵尊があります。本尊は港南区大久保町に移転されてますが、明和九年に引越村の人々によって建立された地蔵尊道標があります。左面に「とつか」右面に「ぐめうじ」と刻まれていました。
写真地蔵尊の看板を左に曲がると、尾根道(武相州国境)です。
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時間をおいて、南高校脇の尾根道を検証しました。残念ながら、庚申塔等はありませんでした。多分、南高校脇から境木地蔵尊までの所謂古道としての国境道は江戸時代にあっては、弘明寺詣での道と一部交錯する以外には主道ではなかったのでしょう。
交錯する箇所(別所の庚申道標~勘九郎地蔵尊)には庚申道標が三箇所、また、尾根道から離れた白山神社から弘明寺へ延びる道にも庚申道標があり、多くの人が往来していたことでしょう。
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白山神社の脇にある宮坂の庚申塔です。
弘明寺道は、この手前白山神社(庚申道標あり)前から餅井坂の分岐に延びます。
 
 
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南高校脇の弘明寺道と国境道の分岐です。左は弘明寺道で南高校の前を通り、馬洗い橋から日限地蔵尊に達する道です。右側の一方通行の道がこの先高台の尾根道で、境木地蔵尊まで続く、武相州国境の道と考えます。
 
それにしても・・迅速側図の威力、相模国風土記稿との相乗効果で、往時にはせる思いをより趣き深いものにしてくれます。
次週は・・鎌倉古道上道のトレースを考えてます。