まさに「春が来た」から「春爛漫」に・・
鎌倉古道トレースの旅はいよいよ”上道”です。下道・中道と幹道を踏破(神奈川県下のみ)し、今日は上道に臨みました。
下道、中道と違い幹道(と思われる)が複数走り、どの道を行くか悩みどころですが、芳賀先生の「旧
鎌倉街道探索の旅 上道編」を参考にトレースしました。間道と言ってしまうには申し訳ないような道が多く並行して延びているので、そのトレースも今後の課題です。
鶴岡八幡宮の「
公暁の大銀杏」が強風で倒れたニュースは大変ショックでした。大銀杏の無い八幡様は少し変な感じがします。
左手に見える・・見えていた・・のです。
大銀杏の倒れた跡を本堂へ上がる階段の上から見ました。右側が移植した切り株です。
化粧坂(けわいざか)の
切通しは
鎌倉七口の一つ。旧
鎌倉街道の起点である
流鏑馬道から武蔵方面ばかりでなく、
東海道方面へ繋がる主要道であったことから、人の往来も多く商業地区として坂の上、下も繁盛していたと言われています。
また、
新田義貞の鎌倉攻めの際には、
新田義貞本人と弟の
脇屋義助がこの
化粧坂に攻め入り、北条基時の軍勢を破りました。ここから源氏山公園周辺は大仏方面や
銭洗弁天、北鎌倉への道など、古い道が多く交錯しており、垂涎の佇まいが続きます・・
大規模な工場や工場建築現場を見ながら、北向に進路をとり始めると
旧東海道にぶつかります。戸塚原宿方面から上ってきて、国道一号線と旧道が分かれる地点です。
この辺は鉄砲宿と言われ、宝暦九年(1760年)と刻まれた
道祖神がありました。ここは以前(昨年7月)に”
旧東海道ウォーキング”で通った道です。
東俣野町あたりから上道は
境川やその支流と並行もしくは交錯しながら延びていくことになります。
俣野小学校脇を流れる宇田川(
境川支流)です。桜が満開でした。
またこの辺は畑が多く、立派な農家が多く見られます。
横浜市は広い・・
収穫されずに?収穫後の切り株の跡に?花が咲いてます。綺麗です。
上俣野の庚申道標です。藤沢道、戸塚道・・と刻まれていました。
東泉寺、
琴平神社の前を更に進み、下飯田町に入りました。
源頼朝延命の恩人であった飯田五郎家義の館跡です。頼朝が伊豆山で挙兵をし僅か三百余騎で石橋山に陣を構えたたものの、敵の夜襲を受け
箱根山から
安房の地への脱出に成功させたその後の参陣においても武功高く、頼朝よりこの地を与えられたと言われています。
爾来この地は”飯田”と言われています。
上道はこの先、本町田で中道からの間道と合流し、関戸で
多摩川を渡ります。府中を経て高崎まで延びる道です。
次回はこの続きを歩きたいと思います。