新田義貞の鎌倉攻めの道をトレースしました

芳賀先生の「旧鎌倉街道探索の旅上道編」をトレースします。
上道はすでに幹道と目される道を関戸まで歩きました(7月3日)が、境川にそって多くの道があり、今回は藤沢から鎌倉への道を歩きました。
この道は新田義貞の鎌倉攻めの中で、最も有名は稲村ガ崎からの攻め口となった道です。
太平記には五月十八日・・村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂、五十余箇所に火をかけて・・」とあります。
 
今回のトレースの始点は、藤沢本町の白旗神社です。
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腰越で首実検をされた義経の首が境川の支流をながれ、この地に上がり丁寧にあらわれ葬られたといわれる、義経を祭神とする神社です。
近くには「首洗いの井戸」もあります。
今回のトレースは鎌倉時代にズッポリはまることになります・・
白旗の交差点から旧東海道を藤沢橋まで下ります。
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藤沢橋の交差点を左折し、橋を渡り遊行寺から戸塚宿への延びます。
写真に小さく遊行寺本堂の屋根が見えます。
トレース道は手前です・・
今回のトレース道は江ノ島弁財天参詣の道でもあります。
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江ノ島道道標です。
江戸時代元禄期に活躍した鍼医者の杉山検校により寄進されました。藤沢から江ノ島まで一丁ごとに全部で48基の道標があったと言われています。白旗神社にもありました。そして・・江ノ島と龍口の分岐まで、数基のこの道標に出会いました。
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この道標には西行・・と刻まれてます。
48基の一つです。
東に下りこの地に着いた西行は松を仰ぎ、その枝ぶりに都を思い振り返った・・といわれています。西行はこの道を通り、頼朝に会ったのでしょう。
湘南モノレールをくぐると江ノ電の軌道と出会います。往時は境川がこの辺で相模湾に注いでいたようです。
そこには龍口刑場跡があります。
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名越の安国論寺で捕らえられた日蓮上人がこの刑場で斬首されようとした際に、江ノ島の上空に光る物体が現れ、時の執権より助命され佐渡に流刑になった・・と説明されています。
処刑役人の供養塔があります。
ここからトレースは江ノ電と並走します。
義経腰越状」で有名な満福寺があります。
石動神社の夏祭りです。
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準備している脇を江ノ電が走っていきます。
この地ならではの光景です。
トレース道は気持ちのよい海岸沿いの国道134号線を七里ガ浜まで歩き、鎌倉プリンスホテル前を斜めに旧道に入ります。
新田義貞極楽寺坂の切通しから鎌倉に攻め入ろうとしました。幕府軍の抵抗にあい、有名な稲村ガ崎を迂回する道を行くことになるのですが・・極楽寺切通しを進みます。
途中、新田軍の大館宗氏以下十一名の亡骸が埋められた「十一人塚」がありました。
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極楽寺切通しは車道になっています。今回は右の階段をあがり北条泰時により建立された成就院の前を歩きます。
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成就院からの眺望です。
由比ガ浜です。源義経の妾である静御前が生んだ男子を安達三郎に命じて捨てさせた・・悲しい言い伝えの海岸です。
このあと、鎌倉十井の「星の井」から長谷に歩き、長谷の交差点を右折します。
途中、頼朝、実朝や北条政子が詣でた甘縄神社に立ち寄りました。
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盛久頸座跡です。
源氏との戦に敗れ捕らわれた平家の将、平盛久がこの地由比ガ浜で処刑されを免れ、助命されたとされる地です。少し進むと、和田塚への分岐である六地蔵の交差点に着きます。トレース道はその交差点を右折しますが、
名前の通り
この交差点には「六地蔵」があります。
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鎌倉時代、この地には刑場がありその供養に建てられたと伝わります。
悲しい史跡が多いです。
 
右折した道は真っ直ぐに寿福寺にまで延びています。
 
今回のトレースは15キロに満たない短い距離でしたが、多くの史跡や石碑があり写した写真は51枚!
トレースを始める前に訪れていたところもありますが、やはり歩いてみて発見できるものが多くありました。毎度毎度のことですが・・
よいトレースが出来たと思います。
 
これまでの鎌倉古道トレースは鎌倉から外に出て行くという形で始めましたが、今回は外から入ってくる道「いざ鎌倉!」道でした。
気のせいか趣も少し違うように感じられました・・