先週は名越の切通しから鎌倉に入る古道をトレースしました。
始点は馬堀海岸でしたが、そのときに説明板にあった「浦賀道」が気になり、早速、今日の始発電車で向かいました。
で・・今日の始点は金沢文庫駅の近くにある道標(能見堂道標)です。
今回はしっかり確認して、スタートです。
一度、八景をめぐってみなくてはなりません。
金沢八景駅前を少し進み、六浦の交差点で右折・・そうです、当時の地形にそって大きく迂回します。
今回のトレースは非常に厳しいものでした・・多くの登り坂を喘ぎながら足を進める・・というものでした。
その①
追浜の先・・浦郷トンネルです。この先、トンネルの手前の右側階段を上がり・・藪漕ぎです。
でもこれは序の口・・でした。
その②
港が丘の住宅地です。
この住宅地造成で浦賀道のトレースが困難になりました。盛福寺の墓地から門前に抜けるために、三浦ハイキングコースを進みます・・薮漕ぎです。途中、田浦梅林という案内板もあり、ショートカットが頭をよぎりましたが、田浦四、五丁目方面への下り坂を行き、何とか浦賀道に復帰です。
その③
浦賀道最大の難所「十三峠」です。
上り道の途中から後ろを振り返りました。向こう側の山は田浦梅林です。京浜急行がその手前の山すそを走ります。
ようやく稜線に出ました。
まだしばらくダラダラとした登り坂が安針塚まで続きます。ちょうど9時です。日も高くなり、日差しも強くなってきました。
持参した氷結ウーロン茶はこの時点で無くなりました・・
安針塚です。
右が安針の墓、左は妻のものです。オランダ東インド会社の水先案内人だったウイリアム・アダムスは徳川家康に重用されこの地に250石を与えられました。家康の死後、元和六年に長崎平戸で亡くなり、遺言によりこの地に埋葬されました。この一帯は塚山公園として整備されています。
浦賀道は公園内を進みます。
安針塚から一気に下ります。
下ったところに安針塚への道標があります。大正十年に立てられたもので、左面には英語でも刻まれています。
現代はこのようなトンネルで隣の吉倉町と結ばれています。浦賀道は当然・・左側の坂道です。
その④
京急逸見駅から汐入駅まで・・「これが浦賀道」と思ってしまう細い登り道を行きます。今は住宅地ですが、往時はどのような道だったのでしょうか?要所要所には現代の道標があります。不安→安堵→不安・・の繰り返しです。
その⑤
汐入小学校の手前を右折、緑ヶ丘女子学園まで一気に登ります。途中から気がついたのですが、京浜急行の一駅一駅・・登りと降りを繰り返しています。
夏祭りが各地で行われており、お囃子が賑やかです。
ゴールも近くなり、少し余裕が出てきました。
でこの一枚です。浦賀の街灯です。帆船をイメージしたおしゃれな感じです。先週のマンホールといい、このような発見も楽しいものです。
浦賀の渡しです。
浦賀道は海沿いの県道から一本内側の道なのですが、興味津々・・見に来ました。
どこか微笑ましいです。
本日の終点・・浦賀奉行所跡です。
堀でザリガニ採りをしている子供に気をとられ(・・というわけでもないのですが)、ごらんの通り、失敗!指が入ってしまいました。
これまでの古道探索の中で群を抜くキツさでした。途中の案内には、江戸期の記録に金沢から横須賀(大津港のことと思われます)での海路利用は陸路の3.5倍、その逆行は33倍。多くの旅人が海路を利用するために、街道筋での商売の衰退を危惧し、横須賀村の名主より「大津村からの乗船禁止」の依頼が出されていたほどであったと記されていました。金沢から十三峠などの難所を多く越えてようやく浦賀に到達するこの道は往時から非常に厳しい街道であったのでしょう。
ホント・・キツかったです。
次回は・・考えます。