この三連休は後半天気が下り坂。
日付が変わった頃から、雪が混ざるかもしれないようです。
慶應通信の勉強を・・と考えていたのですが、長女が帰省してきており、なかなか上手い具合に進みません。
先刻、近くの上大岡に用事があるということで、車で送っていったのですが、帰り道に少しだけ寄り道です。
現在でも「引越坂」というバス停にその名前が残っています。
『新編武蔵国風土記行』には「引越村ハ郡ノ西相州堺ニアリ多々久郷小机庄ニ属す(中略)隣東ハ山ヲ隔テ弘明寺村南ハ山ヲ堺テ中里村北ハ永田村ニシテ西ハ峰ヲ堺テ相模国鎌倉郡平戸永谷中ノ二村ナリ(後略)」という記述があります。
明治15年に作成された第一軍管地方二万分一迅速測図の複製です。
江戸時代末期から明治初頭の頃の土地の様子が良く解る、私がお気に入りの地図資料です。
現在ではこの尾根道も数本の幹線道路が切通しで分断されていますが、それでも道沿いに石塔が残されました。
まず、地図の下のほうの矢印あたりの庚申道標です。
右側面には「右ぐめいじ武州別所村」、左側面「寛政十二年とつか道」と刻まれています。
正面には「寛政元年」や「弘明寺道」と刻まれています。
左側面には「左戸塚道」と刻まれています。
前出の庚申道標とも考え合わせると、当時は東海道を戸塚宿方面から来ると、品濃坂を上がる東海道と右に別れ、その後、引越村を経て弘明寺に向かう道と、この尾根道に上り、別所方面を抜けて弘明寺に向かう道があったのでした。
久しぶりに、近隣地域の金石碑を訪ねました。
ここのところ、慶應通信と歴史博物館の講座や古文書講座で時間がとられていたので、このような時間が確保できずにいました。
1月度科目試験が終わったら、甲州道中にも行ってきたいと思います。
そろそろ、慶應通信の勉強もしなくては・・です。