自宅近くの石碑です。

この三連休は後半天気が下り坂。
日付が変わった頃から、雪が混ざるかもしれないようです。
 
慶應通信の勉強を・・と考えていたのですが、長女が帰省してきており、なかなか上手い具合に進みません。
先刻、近くの上大岡に用事があるということで、車で送っていったのですが、帰り道に少しだけ寄り道です。
以前、ブログでも紹介したのですが、私が住んでいる横浜市南区六ッ川と港南区との区境が、武蔵国相模国の国境になっています。
国境の道は横浜市立南高校の校門前から尾根道を境木不動尊のあたりまで続いています。
横浜市南区六ッ川は武蔵国久良岐郡引越と言いました。
現在でも「引越坂」というバス停にその名前が残っています。
『新編武蔵国風土記行』には「引越村ハ郡ノ西相州堺ニアリ多々久郷小机庄ニ属す(中略)隣東ハ山ヲ隔テ弘明寺村南ハ山ヲ堺テ中里村北ハ永田村ニシテ西ハ峰ヲ堺テ相模国鎌倉郡平戸永谷中ノ二村ナリ(後略)」という記述があります。
その「西ハ峰ヲ堺テ相模国鎌倉郡平戸永谷中ノ二村ナリ」の部分、国堺の道には二つの石碑があります。
 
イメージ 1
 
明治15年に作成された第一軍管地方二万分一迅速測図の複製です。
江戸時代末期から明治初頭の頃の土地の様子が良く解る、私がお気に入りの地図資料です。
破線が武蔵国相模国の国境になります。
 
イメージ 2
 
現在ではこの尾根道も数本の幹線道路が切通しで分断されていますが、それでも道沿いに石塔が残されました。
まず、地図の下のほうの矢印あたりの庚申道標です。
右側面には「右ぐめいじ武州別所村」、左側面「寛政十二年とつか道」と刻まれています。
 
イメージ 3
 
尾根道はこの先で切通しで分断されます。後ろ側には横浜横須賀道路が再び尾根道を分断しますが、橋でつながっています。
 
横浜横須賀道路を跨いで、車一台通行するのが漸く・・というような細い尾根道を行くと、百万遍念仏講中と国境道標の石塔があります。
 
イメージ 4
 
正面には「寛政元年」や「弘明寺道」と刻まれています。
左側面には「左戸塚道」と刻まれています。
前出の庚申道標とも考え合わせると、当時は東海道を戸塚宿方面から来ると、品濃坂を上がる東海道と右に別れ、その後、引越村を経て弘明寺に向かう道と、この尾根道に上り、別所方面を抜けて弘明寺に向かう道があったのでした。
 
イメージ 5
 
右側面には「武州相州境道」と刻まれています。その道を更に進むと前述の戸塚から引越村経由で弘明寺に向かう道に勘九郎地蔵尊(道標)がありました。
 
久しぶりに、近隣地域の金石碑を訪ねました。
ここのところ、慶應通信と歴史博物館の講座や古文書講座で時間がとられていたので、このような時間が確保できずにいました。
そういえば、甲州道中ウォーキングも笹子峠の手前で止まったままです。
1月度科目試験が終わったら、甲州道中にも行ってきたいと思います。
 
そろそろ、慶應通信の勉強もしなくては・・です。