見落とした石碑を訪れました・・

昨日はゴルフで伊豆の伊東まで行ってきました。金曜日から泊まりでお客様を接待・・久しぶりだったので、チト疲れました。
というわけで、今日はこれまでの古道探索での見落とし(庚申塔や道標)を訪ねることにしました。
先人の皆様がNET上に多くの情報を掲載されています。
事前の予習が足りないのでしょうか?今日は二件の見落とし箇所を訪れました。
その①
永野小学校横の庚申道標
写真の右から左に歩きました。ちょうど角地で右から歩いてきた際に奥まっていたために見落としました。
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庚申塔(安政五年)には
「右ぐめいじ道 左此方やど かまくら道 とつか道」そして「相州鎌倉郡上永谷村」と刻まれています。
地神塔は明治四年のものです。
先週は中国語のCDを聴きながら歩いていたので、注意も散漫になっていたのかも知れません・・
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「金石碑の類にあまり出会えなかった・・」は先週のy21のコメント。
失礼しました!と猛反省です。
先週は相州(鎌倉郡)と武州(久良岐郡)の国境をまたぐように歩きました。
環状二号線沿いの歩道橋の下に馬洗橋の碑がありましたが、当時、馬洗橋を経由して弘明寺に延びる道がありました。この辺は鎌倉古道との関連性が種々議論があるところなのですが、一方で、この地域は再開発による大規模造成が行われました。
上永谷の駅から日限山に向かう途中の丸山台地区に街道沿いにあった石碑を移動させた場所があります。
横浜市教育委員会の説明板にもその旨が記載されています。
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以前にいたち川の新橋から弘明寺道(芳賀先生は”旧鎌倉街道探索の旅”で下道と中道の間道と位置づけている)を歩いたときに見落としていました。
宅地造成区域なので、そもそも古道をトレースできるような場所ではなかったのですが・・
堅牢地神塔(明治四年)・・堅牢地神バラモン教の中の12の神が仏教に取り込まれたもので、土地の方位や位置を守る、十二天の一つです。
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手前から二基目の庚申塔(享保七年)は道標記載がありました。街道沿いから移動されたもの故でしょうか?また、往時の人の往来に思いをはせたくなりました。「右とつか道 左かまくら道」と刻まれています。三猿が彫られた笠付塔婆型の綺麗な庚申塔です。
堅牢地神塔にも道標記載がありました。「右加満くら道 左横濱道」明治四年の建立ですが、”横濱”という地に明治を感じます。
 
”疲れた割には”早起きして、地図を見ながら古道トレースをしました。次回はいよいよ地元南区から磯子区辺りを歩く準備をしました。
が・・今日の帰路、上永谷→日限山→桜橋→舞岡→不動坂・・このルートの魅力には勝てず・・悩み中です。
う~ん・・悩む!