鎌倉古道の上道の続編です。

晩上好!
 
今日は鎌倉古道の上道の続きを歩きました。
前回(鶴岡八幡宮富士塚城址)は4月7日だったので、約二ヶ月ぶりです。
その間を、旧東海道の踏破、横浜市の江戸期の古道探索に費やしてました。久しぶりの鎌倉古道探索です。
y21の鎌倉古道探索は以前に述べさせていただいたとおり、派が善次郎先生の著書「旧鎌倉街道探索の旅」をベースに行っています。
この本は1978年に”さきたま双書”から出版されましたが、30年超の年月はすっかり道の姿を変えてしまってます。
 
横浜市営地下鉄で下飯田に行き、前回の終点「富士塚城址」からスタートします。
この辺は源頼朝の協力者であった飯田氏の所領でした・・ということは以前にお伝えしました。
古道は境川に沿って北上します。
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下飯田町から瀬谷にかけては、境川沿いの肥沃な土壌を活用した農業が盛んで、立派な構えのお屋敷が多く見られます。
長屋門のお宅がありました・・
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「下飯田の左馬神社」です。
境川に沿った地域には左馬頭源義朝を祭神とした「左馬神社」が11社ありますが、その一社です。全国に左馬・鯖という神社はこの11社のみと言われています。
神社の前には庚申道標があります。
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左馬神社の前の道です。これからの道程を期待させてくれます。
境川泉区から瀬谷区に北上します。途中、鎌倉の日蓮上人辻説法の地から永徳二年に日什上人によって移された「本興寺」や羽太郷土資料館前の「新田義貞進軍の道」を経て、中屋敷地区に入りました。
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この地域は大木の中を古道が延びます。
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指定銘木のケヤキです。
後ろに邸宅の門の瓦が見えますが・・大邸宅です。
この先、中屋敷地区は境川に沿って盛んであった養蚕業から、製糸工場があり特に栄えていた地域だったようです。立派な構えの邸宅が多く見られました。
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つつじに埋もれるように立って居ます。
道祖神天保六年、堅牢地神塔は天保十一年と刻まれています。
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瀬谷銀行跡です。
瀬谷銀行?養蚕や製糸業が盛んであった明治40年にこの地に誕生、その後30年に渡ってこの地の産業振興に寄与したと書かれていました。
人の往来も多かったのでしょう。今回の探索では多くの庚申塔道祖神が見られました。
一方、横浜市の西端のこの地域も、農業がいまだ盛んとは言え、開発が進んでおり、道路の拡張・造成で居場所のなくなった石碑の類が近くの寺社に移設され大切にされているようでした。
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中屋敷を過ぎると、妙光寺があります。
妙光寺日蓮上人が一泊した寺として有名です。一泊した際に、当寺の住職が日蓮上人の説法に感銘し、宗派を変えて現在に至ります。日蓮上人は身延山から池上本門寺に行く際に足柄峠を越えて相州に入り、この寺に一泊したのです。弘安五年(1283年)のことでした。
更に北上し、旧16号線(県道56号線=八王子街道)と国道246号線(大山街道)の交差点を越え、国道16号線を越えます。
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田園都市線南町田駅周辺の閑静な住宅街から、町田市鶴間、金森を経てJR横浜線を「町田天満宮」の前で跨ぎ、町田駅に着きました。
本日の終点です。
鎌倉古道の上道は下道、中道と異なり、幹道がはっきりしません。多くの道がくっついたり離れたりしながら北上します。境川の流れの変化により道が変わったりしたことの影響でしょうか?ただ、八王子を抜けて上州にまで延びる上道は、中世の軍用道路から近世(江戸時代以降)も産業道路として使われた名残なのかもしれません。
 
次回は多摩川(関戸)までを繋ぎます。中道間道との合流点(養運寺)を経て小野路から永山を抜けて多摩川べりの関戸まで歩きます。
 
5月1日に旧東海道を踏破しましたが、一年計画で「旧中仙道を日本橋まで戻ってくる」ことにしました。
東海道に比べてアクセスが悪いので、長い休みが取れるときに集中することにします。
夏休みからのスタートを目指して準備中です。