武相州国境の道・・続編です。

先週は20℃を超える日があったかと思ったら、金曜日は真冬のような寒さ・・夜半には雪が降りました。
土曜日は午前中が氷雨、午後からは晴れました。
今日、日曜日は”古道日和”。
朝から国境道の探索に出かけました。前週に国境の道を検証したので、3月28日(境木地蔵尊まで)の続きです。
旧東海道を品濃一里塚を通り、境木地蔵尊まで歩き、そこから旧東海道と逆(左)に進路をとります。
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品濃一里塚です。日本橋を出て9番目の一里塚(金杉橋含む)で、左右の塚が現存する貴重な史跡です。写真は京に向かって右側の塚です。
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一里塚から江戸に向かい少し行くと、焼餅坂に差し掛かります。
相模国風土記稿の品濃村、平戸村の項にも記されています。
『平戸村 坂三。一ハ焼餅坂。一ハ谷宿坂。一ハ品濃坂ト呼フ。皆東海道往還中ニアリテ品濃村界ニ値レリ名義等彼地ニ據ラバ総ヲ彼村ノ條ニ詳細ス。』すみません・・品濃村の項の方が詳しいのでそちらを読め!と書いてありますが、省略です。
この先、坂を登り切った先に境木地蔵尊があります。
突き当たって(というか地蔵尊まえの交差点)、右が旧東海道、左が国境道です。
環状二号線を越えて、幹道から右にそれると尾根道となります。途中横浜新道で一旦寸断されますが、横浜カントリークラブの前を国境道は延びてます。
が・・結局、鎌倉古道中道で通った、戸塚カントリー倶楽部のクラブハウスの脇にあった都塚(武相州国境道の道標あり)まではゴルフ場の敷地で行く手が阻まれてしまいます。
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横浜新道手前の国境道です。古道の鉄則・・尾根道です。
行く手を阻まれた国境道を諦め、南本宿に向かいます。この道は鶴ヶ峰と保土ヶ谷を結ぶバス道ですが、帝国陸軍測量部の迅速側図にも、村道として記載されている道です。
江戸時代は相応の往来が予測され、足跡を求めて”探索の旅”です。
桐が作から南本宿まで歩き、南本宿の交差点で折り返しです。今井町まで歩くと、子神社があります。
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先に見える鳥居は文化七年。境内にも江戸時代の石碑があります。
古道は子神社の前から今井川沿いに延びますが、子神社の先、古道から少し離れた場所に金剛寺というお寺があります。
ここで・・新たな発見がありました・・
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境内には江戸時代の庚申塔があったのですが、その脇にある説明板に・・
今井町に”城山”と呼ばれる標高87mの丘がある。半島状に突き出ており、西すそには今井川が流れる要害の地。木曽義仲の四天王の一人、今井兼トしの居城というが不明・・(中略)
城山の西に鎌倉橋という橋がかかるがかつての鎌倉古道は品濃坂から今井に至り、この橋を渡り城山に突き当たり城山北側をぐるりとまわり星川に抜けていた。
昭和30年10月に城山稲荷から埋蔵金が発見された。大カメに古銭が百貫。宋銭、明銭、南宋銭、元銭などの渡来銭であり、江戸期のものはなく、鎌倉から戦国期に使用された・・(攻略)」とあります。
武蔵国風土記稿(現在購入手配中)で確認します。権太坂が開通したのは東海道の整備から50年以上経てからとの話しを聞いたことがあり、これは検証要です。
鎌倉時代→江戸時代・・検証してみなくてはなりません。
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城山稲荷社です。
うっそうとした林の中、階段を登ると今井城祉の碑と嘉元二年(1304年)と刻まれた板碑があります。
またまた深みにはまりそうです。
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法泉下です。
横浜横須賀道路をくぐり、JR東海道線と並走します。
この先、元町ガードを潜ると、旧東海道に合流します。
起点(品濃一里塚)と終点(元町の庚申塔)への行き来を入れて約4時間半の探索でした。先達のいろいろな資料を分析に、再訪を決めました。
まずは、
 ①金剛寺の記載の検証
 ②権太坂開通前の東海道の検証
です。
・・鎌倉古道上道もありました。
次回は上道を関戸まで歩きます・・天気がよければ・・です。