「記録史料学研究」のフィールドワーク その①

おはようございます。
この週末、I先生の「記録史料学研究」のフィールドワークで、上野恩賜公園に行ってきました。
もりたくさんのフィールドワーク、その様子を数回にわけてお伝えしたいと思います。
30歳下の同級生Tさんが「I先生の講義は中毒性がある」と言っていましたが、とても丁寧で豊富な知見はもとより、研究者としての取り組み手法などについても熱く語ってくださいます。
さて、「上野恩賜公園および寛永寺墓所の巡見」と題したフィールドワーク、「西郷さん」像まえに11時集合です。
4時間ほどのフィールドワークのあとはビールで乾杯&反省会という段取りです。

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西郷隆盛像です。
高村光雲の手になるこの「西郷隆盛像」がなぜ浴衣の着流しで犬を連れているのか?
勇壮な軍服や騎乗の姿ではないのか?
明治221889)年、大日本帝国憲法公布の大赦で、「逆賊」の名を赦された西郷でしたが、
それを受けて、樺山資紀薩摩藩出身の人達が、皇居門外に銅像建設を計画しました。
場所が皇居門外から上野公園に変わり・・
正装・騎乗が資金不足で断念・・
陸軍軍人の正装は明治政府の反発を受け・・
結果、現在の浴衣姿に犬を連れた銅像になりました。
銅像をみた西郷夫人が銅像が本人に似ていないと言った話は有名ですが、どうやら西郷が「人前に浴衣で出るような失礼な人じゃなかった」ということを意としたことだったともいわれているようです。

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彰義隊供養塔です。
慶應43月に旧幕府の恭順派と新政府軍の話し合いによって、江戸城無血開城されましたが、旧幕府軍の好戦派は彰義隊を結成、輪王寺宮を擁立して寛永寺を基点に市中見回りを行っていました。
新政府軍は本郷の加賀藩邸(現在の東京大学)から寛永寺に向けてアームストロング砲による攻撃を開始、上野広小路に面する黒門では西郷の率いる政府軍と旧幕軍の間で激しい戦闘が繰り広げられました。
旧幕軍の戦死者を埋葬し「彰義隊戦死之墓」刻まれた墓碑が、現在の大きな「彰義隊供養塔」の前にあります。

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当時は表立って逆賊の死を供養することは憚られたとのことです。