「記録史料学研究」のフィールドワーク その②

おはようございます。
I先生の「記録史料学研究」のフィールドワーク「上野恩賜公園および寛永寺墓所の巡見」その②です。で、上野恩賜公園に行ってきました。
彰義隊供養塔」から「清水観音堂」→「上野大仏」→「上野東照宮
とまわりました。

イメージ 1

「清水観音堂」です。
水観音堂は、寛永8年(1631寛永寺の開山、天海大僧正によって建立されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物とのことです。
ホームページによれば、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立し、清水観音堂は京都の清水寺を見立てたお堂、国指定重要文化財です。
I先生は不忍池を琵琶湖に見立てた・・とおっしゃっていました。

イメージ 6

歌川広重「上野清水堂不忍ノ池」(国立国会図書館)には「月の松」と「清水観音堂」そして「不忍池」が描かれ、江戸の名所として親しまれてきました。

イメージ 2

現在の「月の松」は二代目です。
残念ながら「月の松」ごしの「不忍池」をはっきりと見ることはできませんでした。

イメージ 3

天海僧正毛髪塔」です。
徳川家康に登用された、天海僧正寛永21625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、「東叡山寛永寺」を開きましたが、比叡山京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのでした。
天海僧正は子院の本覚院において108歳で示寂。寛永20年(1643)のことでした。日光山に葬られますが、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられました。
上野の山には寛永寺の子院も多くありましたが、上野戦争で消失すると一帯が公園とされたことから、このような現在の「公園」とミスマッチな印象を受けます。
このようなミスマッチな感覚から歴史を紐解いていく、その背景にあるもの、人や思想の動きなどを検証していく・・
今回のフィールドワークで学んだことです。

イメージ 4

このような石(石垣用の)ひとつとっても・・
「多くの示唆を感じなさい」

イメージ 5

そして「上野大仏」に到着。
この日は30度を超す真夏日、ウォーキングが大好きなy21はそれほどでもなかったのですが、みんなシンドそうでした。
明日は「上野東照宮」を紹介しましょう。