おはようございます。
「記録史料学研究」のフィールドワーク、後半のハイライト!「寛永寺ゾーン」を中心に報告します。
明治3年(1870)、新政府は旧寛永寺跡地に大学東校(東大医学部の前身)と附属病院の建設地候補として考えていましたが、依頼を受け視察したボードウィン博士は世界各国の大都市に見られるような“都市型公園”にすべきと主張しました。
結果、公園としての整備が進み、明治9年には上野公園として開園されました。
徳川家綱廟門(逆光うまく写りません・・)
徳川綱吉廟門
寛永寺です。
境内には多くの興味深い金石碑があります。
今回のフィールドワークのもうひとつのキーワードは“金石碑”は金石碑と言えるかもしれません。
このあと、谷中墓地を散策し、日暮里駅の近くにある中華屋さんで「お疲れさま」会をして帰りました。
酷暑のなか、それでも歩数は以外に少なく約10000歩。
秋のフィールドワークも考えておられるとのことで、今からたのしみにしています。