「記録史料学研究」のフィールドワーク その④

おはようございます。
「記録史料学研究」のフィールドワーク、後半のハイライト!「寛永寺ゾーン」を中心に報告します。
上野東照宮から、ボードウィン博士像→東京国立博物館周辺(内国勧業博覧会場跡地)を歩きました。

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明治3年(1870)、新政府は旧寛永寺跡地に大学東校(東大医学部の前身)と附属病院の建設地候補として考えていましたが、依頼を受け視察したボードウィン博士は世界各国の大都市に見られるような“都市型公園”にすべきと主張しました。
結果、公園としての整備が進み、明治9年には上野公園として開園されました。

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東京国立博物館前を渡り、寛永寺旧本坊表門につきました。

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門扉には上野戦争の弾痕が生々しく、当時の戦闘の激しさがうかがえます。江戸時代、上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていましたが、上野戦争で消失、この表門だけが戦火を免れました。
明治11年、帝国博物館(現在の東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後に現在地に移建されました。
寺町の風情がのこる東博わきの道を、I先生の丁寧な説明を聞きながら歩きます。ホント博識!さすがです!

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徳川家綱廟門(逆光うまく写りません・・)

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寛永寺です。
最盛期には現在の上野公園一帯を中心に広大な寺領を有していた寛永寺でしたが、戊辰戦争を経て明治政府によって没収されると、寺勢は一気に衰退したようです。

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明治12年にようやくその復興が認められ、この地に川越喜多院より本地堂を移築し、根本中堂として再建されました。
境内には多くの興味深い金石碑があります。
今回のフィールドワークのもうひとつのキーワードは“金石碑”は金石碑と言えるかもしれません。
このあと、谷中墓地を散策し、日暮里駅の近くにある中華屋さんで「お疲れさま」会をして帰りました。
酷暑のなか、それでも歩数は以外に少なく約10000歩。
秋のフィールドワークも考えておられるとのことで、今からたのしみにしています。