三週間ぶりのウォーキングです!

なんと三週間ぶり!
中山道から帰ってきてから・・
釣り→釣り→ゴルフ ようやく古道ウォーキングに戻ってきました。
 
今日も暑い一日でした。でも、日差しは更に柔らかく「秋」ですね。
そんな一日・・
横浜道を歩いてみよう!と思い立ち準備をしてきました。
安政5年の日米通商条約の締結に伴い、幕府は永年の鎖国を解き横浜港を開港しました。当時の横浜村は東海道神奈川宿から遠回りを余儀なくされる不便な場所にありました。
以下・・横浜市中区のホームページの記載です。長文ですが・・

安政5年(18586月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の
開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港
3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。
当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼう
むら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、
東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)
この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を
築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを
開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ・・(後略)』
 
 
吉田橋です。ここには関門がもうけられ、開港と同時に賑やかになった当地の人の往来を管理してい
ました。
 

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ここから浅間下で旧東海道に合流するまでが、横浜道です。
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都橋からの風景です。
大岡川に架ります。川にさった湾曲の建物・・全部”飲み屋さん”です。
夜になって、決してきらびやかではない看板が水面に写る光景・・想像できます!
先ほどの説明にもありましたが、横浜道は”急こしらえ”でした。多くの橋をかけて、何とか体裁を整えたので
しょう。
しかしながら、想像以上のスピードで横浜は発展していきます。
海外に開かれた貿易の拠点としてです。
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野毛坂を登り、右に折れるとこのような石積擁壁があります。横浜の豪商平沼専蔵邸のものです。
近々、関内地区の探索もしてみたくなりました。近代化にひた走る力を感じます。
今日のウォーキングは横浜道~旧東海道~相州道と歩きます。
浅間下で旧東海道と合流し、保土ヶ谷宿方面に向かいます。
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とても”安い”ことで有名で、テレビ番組で取り上げられたことも多くあるようです。
これは神奈川宿方面を見ています。人ごみを抜けると、八王子道との追分があります。この道も横浜開港
以来、往来が活発になりました。「絹の道」と呼ばれていたようです。
絹は当時の日本を代表する輸出品でした。
武蔵国橘樹郡神奈川領」の橘樹郡の由来となった?橘樹神社をすぎ、帷子川を渡り暫く歩いて、右折します。
神戸町の庚申地蔵があります。隣には現代の道標です。
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右の電柱脇にあるのが道標です。
これには「相州道」「古東海道」と書かれています。
「古東海道」・・芳賀先生の”旧鎌倉街道探索の旅”には旧鎌倉街道下道として紹介されています。
このブログでも紹介しました。その道を今日は相州道を歩いて横切ります。
しばらく行くと、村社”神明社”の立派なお社があります。
相州道は相鉄線と並行して延びていきます。
途中、八王子道との間道もあります。
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間道沿いにある杉山神社です。
お祭りの準備に忙しい・・本堂の脇に石塔が保存されています。
道は上星川駅を過ぎあたりから右にそれ、丘陵を登っていきます。
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西谷浄水場旧計量機室です。
日本で始めての近代水道が明治20年に横浜で誕生しました。野毛山貯水場です。今は公園になってます。
この先に西谷浄水場があり、横浜水道記念館があります。
西谷浄水場は大正四年に完成しました。以来、横浜市民に良質の水道を供給してくれています。
y21の住む南区も西谷浄水場の水です!
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途中発見したたばこ屋さんです。
趣のある店頭の佇まいです。
相州道は相鉄線を越え二俣川に延びます。
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相州道は踏切の手前を右に曲がり跨線橋を渡ります。上には保土ヶ谷バイパスです。
すぐ近くに二俣川駅があり、開かずの踏切っぽくなってました。
本日の終点、相鉄線三ツ境駅です。
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二俣川で相州道は2ルートに別れ、三ツ境の手前で再合流します。
次回は二俣川からもう一方のルートを境川まで歩きたいと思います。
 
今日のウォーキングで「旭区の神社」を回っている方に出会いました。
色々な話しを伺いました。
お名前を聞くことなく別れましたが、とても良い時間でした。
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お会いしたのは、小さな稲荷社でした。
お稲荷さんの石像もなく、お社のトタン屋根が赤いことから「稲荷神社なんだろうか?」と問いかけられました。
後に調べたところ「横浜の古道」には稲荷社とのみ記載されていました。
本堂の右側に庚申道標(寛政八年)があり、それに関する記載でした。
その方が「神社は民の力を感じ、寺院は歴史を感じる」とおっしゃられたことが印象的でした。
保土ヶ谷の方と伺いました。また、どこかでお会いできるかも知れません。
 
久しぶりのウォーキングでブログも長々としてしまいました。