中山道の振り返り(木曽義仲①)です!

9月に入り二度目の三連休です。
 
さて、約一年かけて踏破した中山道でしたが、中山道のなかで是非とも再訪したいところは「木曽十一宿」です。
木曽十一宿は、往時の佇まいが随所に残されているだけでなく、多くの史跡や伝説が街道沿いに点在します。
 
今回は「木曽義仲①」です!
 
木曽義仲源義賢の次男として生まれました。義仲の前半生については定かではなく、その出生地も伝承にすぎません。
源義朝との対立の結果、大蔵合戦で源義平に敗れた、父義賢でしたが、幼名を駒王丸といった義仲は信濃の国に逃れました。
吾妻鏡』には乳母父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷に逃れ、兼遠の庇護のもと育ち、木曾次郎と名乗ったとあります。
中山道宮ノ越宿の周辺には義仲に関わる史跡が多く残っています。
 
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中原兼遠の館跡です。
中山道から400mくらい離れた畑の中にあります。
 
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また、その近く
(中山道沿い)には手習天神があります。古くは山下天神と呼ばれ、兼遠が義仲の学問の神として勧進したと伝わります。『源平盛衰記』にも兼遠が義仲を木曾の山下に隠し養育したことが記されていますが、その山下というのが、この手習天神のある上田の古名であるとのことです。
 
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 中山道から少し離れていますが、木曽川を挟んだ川向こうに「義仲館跡」と「旗挙八幡宮」があります。義仲は元服後、この地に住みました。十三歳で元服し木曾次郎源義仲と名を改め、27歳のときに千騎あまりを従えて、ここに平家打倒の旗挙をしたと伝わります。
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八幡宮のお社の脇には樹齢約800年超の大ケヤキがあります。
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ここ旧日義村には「義仲の七本欅」と呼ばれるケヤキの大木がありましたが、現存するのはこの一本のみとのことです。義仲の元服を祝って植栽されたもの・・とも言われています。
 
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中山道の中間地点の案内板がある辺りから木曽駒ケ岳山麓の広がりが見えます。義仲の練兵場があったところで、陣立原などの地名も残っています。
 
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木曽路の名勝「木曽の桟
(かけはし)」の手前(江戸寄り)に沓掛観音があります。現在は一里塚の上に観音様を祀った祠があります。人の言葉がわかると言われた義仲の名馬が木曽の桟にさしかかったときに、義仲の言うとおりの距離を跳んだところ、その距離が一間足らず、桟下の川に転落してしまった。馬上の義仲は九死に一生を得て助かったが、名馬は亡くなっていた。義仲はその名馬を弔って、金の観音像を作ったといわれる。
以前は現在の位置より少し南の観音坂にあったが、明治43年の鉄道工事の折に、現在の一里塚の上に移されました。
 
次回は義仲と巴御前に関する史跡を振り返りたいと思います。