宮ノ越塾にある義仲橋を渡ると右側に「義仲館」があります。
受付の方が「義仲公は傍若無人な荒くれ者と思っておられる方が多いが、文武に長けた名将だったのです。」と展示物について丁寧に説明してくださいました。
源平盛衰記には「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしなりけり」「色白う眉目は好い男にてありけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななること限りなし」と記述されています。
確かに、後世に描かれた義仲は京に上洛した際の立ち振る舞いなどの紹介から、粗忽な田舎武将のイメージがありました。
オフシーズンで来館者が他にいなかったこともありますが、当地の義仲に対する思いを伺い知ることができました。
巴は義仲の育ての親、中原兼遠の娘でした。巴は兼遠により義仲とともに育てられ、戦場に向かう義仲に帯同し、その武勇と麗将ぶりが後世にも語り継がれています。
巴が淵です。義仲館の近くにある、義仲の菩提寺「徳音寺」と同じ名の集落を抜けると木曽川の流れが巴状に渦巻く淵があり、巴が淵と名付けられました。
伝説ではこの淵に龍神が棲み、化身してこの地の権者である中原兼遠の娘として生まれ、その死後再びその霊はこの淵に帰住したといわれます。
中山道は巴橋を淵を見ながらわたります。
昨年の秋に歩きましたが、この二つの宿場町は多くの人出で大変な賑わいぶりでした。
妻籠宿と三留野宿の間に神戸(ごうど)という集落があります。その近くには「木曽義仲のかぶと観音」があります。
義仲のかぶと観音がまつられており、江戸時代には参勤交代の大名も必ずこの地で足を止め御参りしました。
妻籠に砦を築いた義仲が北陸路に出撃する時に、鬼門の守りに兜前立の観音像を外してここに祀ったのがかぶと観音の起こりと伝わります。
かぶと観音の境内には「巴御前の袖振りの松」があります。
義仲は弓を引こうとした際に、邪魔になった松を巴御前が袖を振って横倒しにし、その倒れた松から芽が出てきて育ったのが「袖振りの松」と伝えられています。
平成20年より虫による侵食がはじまり、翌年に伐採されてしまいました。
現在では地域の人々の計らいで「水舟」として義仲の腰掛岩に寄り添うように置かれています。
さて、慶應通信課程の夜間スクーリングが明日から始まります。
月曜日と木曜日・・週二回ですが、業務との両立は相応に厳しそうです。仕事を5時半に終えて、6時10分に教室に駆けつけなくてはなりません。
10月の試験勉強もそろそろギアチェンジです。