天気が崩れないうちに・・と早起きして「青山通り大山道」を歩きました。
震災の状況も気になり、ラジオを聞きながら。もちろん、会社の携帯電話も帯同しました。
前回の青山通り大山道は江田から海老名まで。
海老名駅入口から歩き始めます。
その相模橋ですが、土地の人々からは「じょう橋」と呼ばれていたとのことです。橋が架けられ”常”に渡れるということでその愛称で呼ばれました。現在のあゆみ橋です。
厚木村は渡し場として栄えました。旧道沿いには、往時の賑わいぶりが感じられます。
厚木を過ぎ、宿愛甲で往時の雰囲気の残る旧道を楽しみながら歩きました。
途中、高森町での光景です。
ボリショイというブランドの学生服も、月虎というブランドの蚊取線香も知りません・・
そろそろ、柏尾大山道と合流し、そろそろ田村通り大山道への合流です。
丹沢大山国定公園の入口として力を入れています。こぶしの花が綺麗です。
東名高速道路の高架をくぐり、田村通り大山道への合流地点の石倉橋へ向います。
途中、「三所石橋造立供養塔」です。享和二年に建てられました。
「三所石橋造立供養塔」から石倉橋方向の大山道です。道に沿って流れる水路は大山を源流とする鈴川から引水した灌漑用水で「千石堰用水」と呼ばれており、小田原北条氏時代か江戸時代初期に造られたといわれています。この辺りはとても”古道らしい”雰囲気が続いています。
石倉橋で田村通り大山道に合流すると、あとは大山まで一直線です。ダラダラと登りが続きます。
写真は大山第三鳥居です。
天保十五年に創建されたものをその後老朽化のため昭和61年に鋼製のものに建替えられました。
第三??調べてみました・・第一も第二も田村通り大山道にあります。
田村通り大山道がメインの大山道(参道)だったのでしょうか?
旧道沿いには趣きたっぷりの宿坊や懐石料理(大山はとうふ料理が有名)のお店があります。
この料亭は緒方竹虎の別邸でした。
一度訪れてみたいです。
また、宿坊は旅館としてその役割をしっかりと引継ぎました。
今回のウォーキング・・史跡のご紹介です。
普済寺の石造多宝塔です。
お寺はお彼岸参りの方が居られましたが、多宝塔は先般の震災で一部が崩れてしまっています。
徳川幕府は北の鎮として蝦夷地に三官寺を創設しました。その一つである国泰寺の第五代住職、文道玄栄が7年の任期を経て、下糟屋の神宮寺へ帰山後建立しこの多宝塔を建立しました。天保九年のことでした。明治に入り神仏分離令により、ここ普済寺に移されました。
高部屋神社の梵鐘です。
今日は大山旧道を這坂、とうふ坂を上り、こま参道の入口まで歩きました。
次回はいよいよ大山を登ります。
以前、ヤビツ峠から二度大山登山をしたことがあります。下社→本社(大山山頂)を歩きます。
鳥居は田村通り大山道に見られました。
「大山道標」の数は柏尾大山道で多く見られました。江戸時代中ごろから一般庶民が神社仏閣を詣でる旅が盛んになりました。柏尾大山道や田村通り大山道は、鎌倉や江ノ島詣でとセットのルートとして人気があり、多くの人が往来した・・と考えてもおかしくはないのでは?と思います。
明日の祝日は雨模様です。
被災地の状況も気になります。週明けの復旧に向けた業務の整理をしたいと思います。
一日も早い復旧、復興を祈念してやみません。