横浜市認定歴史的建造物・・の続き

今日は寒い「冬らしい」一日でした。
忘年会続きで溜まった仕事を片付け、中国語の宿題・・・ほとんど自室で過ごしました。
 
昨日紹介しました「認定歴史的建造物」の”新港橋梁”についてです。
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昭和初期の地図(横浜市都市発展記念館モダン横浜案内)にはこの新港橋から象の鼻の保税上屋まで鉄道線が記載されています。
大正8年の「大正調査番地入横浜市全図」では新港橋の手前で鉄道路は途切れています。もっとも、昭和10年の地図にも鉄道路は記載されていませんから、あまり気にするものでもないのかも知れません。
この新港橋は大正元年に作られましたが、汽車道にある第一・二号橋梁(アメリカン・ブリッジ・カンパニー社製)や第三号橋梁(旧夕張川橋梁~英国製)と異なり、浦賀船渠株式会社で製造されたものです。
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100フィートのワーレン・トラス橋で、第三橋梁と似ています。汽車道からこの新港橋まで、・・米、英、日の鉄橋がそろって見られるということです。
浦賀船渠(通称浦賀ドック)は現在住友重機の追浜造船所浦賀工場となっています。平成15年に閉鎖されました。
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今年7月25日に鎌倉道(浦賀道)を歩いた時の写真です。是非、ドックを見たいものです。
 
昨日ご紹介しましたように、新港橋梁の鋼材には「CARNEGIE」や「DALZELL STEEL」といった、米、英の鉄鋼メーカーの刻印が見られます。
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八幡製鉄所の工場は明治31年に建設に入り、明治34年に高炉に火入れが行われています。これが日本の近代製鉄誕生でした。その後、軌道に乗せるための苦労と試行錯誤を繰り返しながら発展していくのですが、この頃はまだ欧米先進国の製造品に頼らざるを得なかったのでしょう。
そう言えば・・昨年歩いた東海道の大井川鉄橋(昭和3年架橋)にはYAWATAの刻印がありました。
 
y21は総合商社の鉄鋼部門に勤務していました。
約20年・・鉄の商売に携わってきました。縁あって転職した現在の勤務先も「鉄を加工し建築材料を作る」会社です。
昨日新港橋の上で刻印を探しながら写真を撮っていたら「何かいるのですか?」と声をかけられました。「こ・・刻印を」とお答えしたらキョトンとされていました。
 
さて、昨日ご案内しましたように、クリスマスの今週末は横浜市歴史博物館へ行こうと思います。
指定登録文化財展を見てきます!
 
中国語検定・・落ちました↓
週一回の授業だけでなく、予習復習をしっかりと行い、3月にしっかりとリベンジしたいと思います。