日枝神社

昨日は日枝神社に初詣に行きました。
勤務地の氏神様に初詣に行くことはここ数年ですっかり習慣になりました。
このようなことが習慣になるのは良い事だ・・と自己満足でしょうか?
 
昨日ブログアップしましたように、日枝神社の歴史は文明年間の太田道灌まで遡ります。
帰宅後「江戸時代小説はやわかり」誌のなかに「外櫻田繪圖」を見つけました。
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これは嘉永三年に麹町六丁目の尾張屋清七板で、元治元年に校正されたものです。
地図の下部、溜池堀に添うようにあるのが日枝神社です。
日枝神社歌川広重の東都三十六景にも見ることができます。
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「東都三十六景 山王権現雪中」という作品です。
山王鳥居から表参道(山王男坂)、神門が画かれています。
「外櫻田繪圖」に画かれた日枝神社の門前に”丹羽左京太夫”という人物のお屋敷を見つけました。
山王坂に沿った感じで日枝神社に向って左側です。衆議院第一議員会館あたりになるのでしょうか?
 
丹羽左京太夫・・という方。
丹羽長国(にわながくに)陸奥二本松藩主で丹羽家第十一代です。
官位は従四位下、京職は”左京太夫”(太夫・・正五位上従四位下)でした。長国の兄妹が徳川慶勝(尾張藩主で明治維新の成立に多大なる貢献をしたといわれる)や徳川茂徳(慶勝の弟で後の一橋家を継ぐ)の正室であることから、相応の家系なのです。
徳川慶勝、茂徳は会津藩主”松平容保”、桑名藩主”松平定敬”と高洲四兄弟と言われていたそうです。
長国は父長富から安政五年(1858年)に家督を継いでいますから、この「外櫻田繪圖」が校正された元治元年は長国の家長であったと思います。
長国は陸奥二本松藩主として奥羽列列藩同盟に加わり、明治新政府軍と戦い二本松城の落城とともに会津に逃れました。
敗戦後は減封と家督の子息への譲渡を行い、家系の存続を果たしました。明治二年に赦免され、子爵位を授かっています。
さて、相応の家系(丹羽長国の家系)は丹羽長秀まで遡ります。
丹羽長秀・・織田信長の家老で柴田勝家に次ぐ二番家老として有名です。多くの戦国武将の家系が途絶える中で、丹羽長秀の家系は脈々と続いていたことになります。
 
日枝神社をスタートにいろいろ調べてみましたが、面白いですね。
どんどん興味が拡がっていきます!
 
明日は長い休暇の最終日です。
県立歴史博物館に行ってきたいと思います。