寒い週末です。田村通り大山道を歩きました。

ほんとうに寒い日が続きます。
首都圏は乾燥した晴天が続いていますが、日本海側は大雪です。
来週は木曜日から福岡出張・・雪はどうでしょうか?
 
今日は「田村通り大山道」を歩きました。
12月30日に「柏尾大山道」を歩きましたので、「大山道シリーズ」第二弾です。
 
田村通り大山道は藤沢市の四谷不動から大山に向ってほぼ平坦な道が延びています。伊勢原の石倉橋で矢倉沢往還と合流する道です。
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四谷不動道標です。
延宝四年に建てられました。不動道標の右側に大山道が延びます。
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左には旧東海道が走ります。
柏尾大山道に比べて、大山道標や石塔の類を多く見つけることが出来なかったのですが、往時の相模の国の中心地を貫くこの道は歴史史話には事欠きません。
 
田村通り大山道も趣きのある良い道です。
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室田小学校の近くにある神明社前の道です。
神明社前の古木が往時の佇まいを偲ばせます。
 
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梶原景時の館跡です。
梶原景時は治承四年八月の頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた敵方頼朝の一命を救いました。頼朝信頼厚い家臣であり、この地一之宮が所領でした。頼朝の死後、他の家臣の嫉みから鎌倉を放逐されこの地の館に引き上げました。
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梶原一族郎党の墓です。
梶原景時の館跡の少し手前にあります。
正治二年鎌倉を放逐された梶原景時一族郎党が一宮館を発ち、上洛の途中に清見関(静岡市清水区)で討死。一宮館の家族、家臣がこの地に弔ったと伝わります。また、景時父子が討死した後信州に逃れていた家臣7名が世情の変化を捉えて、鎌倉に一族の復権と所領安堵を願い出たが適わず、自刃しここに供養されています。
 
NHK大河ドラマ北条政子が取上げられたときに中尾彬が演じていたような・・記憶あります。
 
当時は相模川には橋がなく「田村の渡し」で往来していました。
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現在は神川橋で渡ります。
遠くに高麗山が見えます。一昨年、旧東海道をあるきましたが、平塚宿から大磯宿まで、高麗山を左に撒くように歩いたことを思い出しました。
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橋を渡ると「渡し場跡」碑がありました。
歌川国芳による当時の「田村の渡場」です。
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渡し場のある田村は二つの往還と平塚から厚木を経て八王子に延びる八王子道とが交差します。旅籠などもあり、田村の宿と呼ばれてました。この八王子道は「奥州みち」と呼ばれていましたが、坂上田村麻呂がこの地を通って奥州みちのくに向ったと伝わっています。そのため田村という地名が残ったとのことです。
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旧田村十字路の道標です。
 
田村通り大山道は伊勢原市街を抜けて、大山に迫ります。
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どんどん大山が迫ります。
この先の石倉橋交差点で柏尾大山道と合流して延びる矢倉沢往還と合流します。
本日の終点です。
 
次回はいよいよ赤坂御門から「矢倉沢往還」を歩きます。大山まで約75キロ・・3回に分けて歩こうと思います。
大山詣でについてももっと勉強することで、ウォーキングも楽しくなってきます。
また、ご案内したいと思います。