今週末はウォーキングをお休みして、溜まった雑務の整理をしています。
浜松の父が病になり、車を引き取ってきました。名義変更の準備をしています。
先週末の中山道ウォーキングの写真や資料の整理をしています。
中国語検定まであと1ヵ月です。
4月から大学の通信教育課程を受講しよう・・なぞと思い、入学のための小論文を書かなくてはなりません。
休日がそれなりに忙しいということは本当に恵まれていますね。
「木曽路はすべて山の中である」
美濃と信濃の国境がある新茶屋集落には、往時を思わせる旅籠があります。
新茶屋の宿です。宿の前に「是より・・」と芭蕉の句碑があり、大切に管理されていました。
「是より・・」の碑は島崎藤村によって揮毫されたものでした。
木曽十一宿は三つに分けられ、それぞれの佇まいに趣きがあります。
馬籠・妻籠・三留野・野尻を下四宿
須原・上松・福島を中三宿
と言う・・と「夜明け前」にあります。京に近いほうが”上”では?とも思いますが、北を上としたのでしょうか?
「夜明け雨」は幕末から維新にむけて大きく舵を切る国の動きとそれに翻弄される人々の姿を、下四宿をベースに主人公の青山半蔵と半蔵ととりまく人々の目線で描かれています。
新茶屋集落から馬籠宿へ心地よい道がのびています。馬籠城を過ぎたあたりから馬籠宿方面です。
馬籠本陣です。
現在は藤村記念館になっています。手前を右に折れると永昌寺があります。これは「夜明け前」に万福寺として登場します。
半蔵は父吉左衛門の名代として、万福寺の新住職となる松雲和尚を先ほどの新茶屋で迎えます。十曲峠を下って広がる美濃の国から人の往来を通じて伝わってくる国の動きに半蔵は焦り(?)と羨望を覚えます。
馬籠宿から馬籠峠を越えて妻籠宿に向います。
馬籠峠手前にある「峠の集落」です。集落手前に「峠の御頭の碑」があります。
これは、安政三年に峠集落の牛方(牛を使い荷駄を運ぶ人々)が中津川の問屋との間で運賃の配分に関する争いがあり、牛方が勝ったことで、牛方の頭である今井を讃えた碑でした。
これは「夜明け前」にも登場する話しです。
広重の馬籠宿には”馬籠峠”が描かれています。遠望されるのは恵那山でしょうか?
峠の頂上は現在の”国境”岐阜県と長野県の県境になっています。
やはり違和感あり・・です。
馬籠峠を大妻籠集落に向けて一機に下ります。
この辺はとても山が深く、木曽五木と呼ばれる、尾張国によって管理された銘木に思いを馳せてしまいます
中山道を歩いていると、この木曽五木に関する説明板を見ることができます。
峠道にはこのような看板です。
半蔵の妻、お民は妻籠の本陣である青山寿平次の妹です。馬籠宿本陣と妻籠宿本陣とを結びつける祝言でした。二つの家は同姓を名乗ってますが、もともとは相模の国は三浦から出て妻籠に落ち着いた青山監物を父祖とする・・
「夜明け前」には両宿に間にある馬籠峠の鬱そうとした描写が見られます。行き来には下男を帯同しますが、往時の雰囲気さながらの光景が残っています。
一石栃立場茶屋跡には「一石栃白木番所跡」がありました。
馬籠峠を下ると大妻籠集落です。集落にはうだつの立った旅籠が数件残っています。
良い風情の街並みでした。
街道沿いに水車小屋がありました。現役です。
広重の妻籠です。馬籠と同じく”馬籠峠”が描かれています。
往時から有名な”難所ぶり”だったということでしょうか?
お民の生家、妻籠宿本陣が復元されています。
妻籠宿は最初に江戸時代末期の宿場町の復元と保存が行われた場所でした。国の重要伝統的建造物群保存地域に選定されています。
妻籠宿の街並みです。
馬籠宿同様・・多くの人が訪れる観光スポットになっています。
木曽路の旅には四日をかけました。
”駆け足”感は否めません・・二日目から「是より南木曽路」の碑まで「夜明け前」を読みながらの行程でした。
もう一度・・今度はゆっくりと往時の佇まいに触れながら訪れてみたいです。
また、木曽路を”復習”してみたいと思います。
次の週末は、青山通り大山道の第二段です。
江田から海老名までを歩こうと思います。春が近づくにつれて、お天気も変わりやすくなっています。
晴れてくれればよいのですが・・