称名寺は金沢文庫から岩山をくりぬいたトンネルで繋がっています。称名寺から金沢文庫へまわるというのが、順路らしいのですが、私は「近道」と書かれた看板に沿ってきたので、裏口から入ったことになります。
トンネルのとなりにある「中世の隧道」です。1323年の「称名寺図会」にはすでに描かれていると説明書きにありました。
称名寺は北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時により建てられました。
金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されました。
顕時、貞顕の墓です。貞顕は六波羅探題をなど幕府の重責を務めたあと、15代執権となりました。
北条実時の墓所へむかう道です。称名寺市民の森として遊歩道が整備されていますが、わずかなスペースですが、原風景を彷彿させてくれます。
阿字ケ池を中心とした浄土庭園が金堂や釈迦堂の前に広がっています。庭園は元応二年(1320年)3代貞顕の代に整備されました。昭和62年に行なわれた発掘調査を経て、現在の姿に復元されました。
平安中期以降に盛んに造られた浄土庭園の形態をもつ最後の庭園です。境内は国の史跡に指定されています。「称名晩鐘」は金沢“八景”の一景です。
金堂と釈迦堂です。
金堂は元和元年(1681年)に再建、釈迦堂は文久二年(1862年)に建立されました。
仁王門です。文政元年(1818年)に再建されました。
このように、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、称名寺の寺運も衰退しましたが、江戸時代に入り大幅に復興され、現存する建物が作られました。
明和八年(1771年)に再建された惣門(赤門)には、北条氏の家紋である三つ鱗です。
以前歩いた「金沢道」から称名寺方向を振り返ります。正面には金沢八幡神社が見えます。この道を進むと、保土ヶ谷宿にある道標に達します。江戸時代も中ごろを過ぎると、庶民の往来も多くなりました。
金沢八景は当時、鎌倉、江ノ島とめぐるお手軽な観光地でした。この金沢道を多くの人々が往来したことでしょう。
金沢道は六浦で六浦道と合流し、朝比奈切通しを経て鎌倉に繋がります。
春の桜の時期に再び訪れることとします。
昨年の夜スク「民族学」で学んだ折口信夫先生(物故)の書かれたテキストで勉強するのですが、このテキストの初版が昭和28年・・旧表記の言い回しや漢字が多く登場し、読みにくいこと極まりないですが、多分「それも勉強」なのでしょう。
がんばってレポートの下書き完了です(国語学系のレポートはほとんどが“手書き”指定です)。
風邪気味なので、下書きまで。明日以降、清書して提出します。