京浜歴科研フィールドワーク その②

おはようございます。

昨日の続き(その②)です。

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戸部町から坂を上って「御所五郎丸之墓」、そこから「くらやみ坂」に向かいました。

東海道と横浜(野毛)間に「横浜道」が造られたのは安政6(1859)年のこと、突貫工事でした。それまでは保土ヶ谷宿から内湾を迂回するしかなく、その道が「保土ヶ谷道」です。

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「くらやみ坂」は「鞍止坂」とも言い、馬も脚を止めるほどの急坂だったとのことですが、この地には江戸時代末期には神奈川奉行所の処刑場が置かれ、明治22年までは監獄がありました。

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処刑場跡には被処刑者の魂を祀ってあるなど、「暗闇」の字を当てれば刑場の鬱蒼としたイメージからこの名が付いたとも考えられます。

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ここで処刑されたと、清水清次・間宮一、鳶の小亀の墓がある「願成寺」は横浜市長衆議院貴族院議員も務めた平沼亮三(1879~1959)の墓地がるなど、平沼家の菩提寺のようです。

再び坂(願成寺道)を上り返して、霞橋に着きました。

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横浜市中央図書館や県立図書館からの帰り道に利用していました(バイクが元気な頃)。

大正2(1913)年に架けられた霞橋は、関東大震災で損壊、現在の橋は昭和3(1928)年に架け替えられた2代目です。横浜市電が走っていたしたが1972年に廃線となりました。

次回の最終回は、太平洋戦争で焼き尽くされた横浜市街地の悲しい歴史をあわせて紹介します。